課題
「歌手が唯一差し出せるものは、自分の人生。これまで生きてきた人生、犯した過ち、希望や欲望。すべてをひっくるめて歌にぶち込む」
パバロッティのドキュメント映画の中で語られていた、胸に深く突き刺さっている言葉。
いつの日か、そんな歌が歌えたら良いなと思うけど、それをするには人前で心を素裸にする必要があると思うけれど、私にはまだそれが出来ない。
いざとなったら開き直る事は出来ても、その時点で「開き直り」という武器を使っている事になる。
今の私は、発声や声を褒められる事が多くて、それはとても嬉しい事だけど、それに依存すると守りに入ってしまう。
それを保とう、崩さないで歌おうとすればする程、中にある感情が声に乗ってくれなくなる。
歌い手である以上、持てる素材の中で可能な限り「良い声、良い発声」で歌う事は絶対条件だし、オケを突き抜けて客席に声が届かなければそれは「表現」以前の問題。
合唱では有りかも知れないし、マイク有りきの舞台ならそれで良いかも知れないけど(合唱やマイクの必要性を否定する発言ではありません)私はソリストとして、大ホールの端っこの席まで届く歌を歌いたい。
メゾに多用される中低音は、高音に比べて遠くに飛ばす事が難しくて自身の中の感覚を常に研ぎ澄まして的を絞る。
的を絞ると余白が無くなる。余白が無くなると表現が乗らない。乗りにくい。
声を褒められるが故に、自分の価値をそこにしか見出せず、固執して執着して主張して、主観と自己主張の強い歌しか歌えなくなってしまっている気がする。
舞台人にとって、自己主張って絶対に無くてはならないものだけど、意地になって凝り固まるのではなくて、素裸でただそこに在るだけで周りにきちんと「私」だと認識して貰えるような存在になりたい。
声は絶対に抜かないし、発声の要である中低音は決して疎かにはしない。
けど今より少し肩の力を抜いてそれが出来たら、今とは少し違う景色が見えて来る様な気がする。
遠くの客席にもきちんと聴こえて、心にも届く歌を歌えます様に。
パバロッティの声が、冒頭の様な言葉で表現されるのは、物凄い重圧と戦いながらも舞台と音楽の前では自分を取り繕う事をしなかったからじゃないかな。
文章だけじゃつまらないので、キメ顔じゃない所が気に入っている写真家の長澤直子さんに撮って頂いた1枚を。